【子供目線で語る】プレッシャーに強い子供ができるまで
期待やプレッシャーに押しつぶされる、とはよく聞く言い回しだが
私はそういう風に感じたことがない。
耐性があるのではない
自分への期待やプレッシャーの存在は認識しているが、自分への圧としては変換されていないのだ。
環境や境遇という視点から見ると、人並みに期待やプレッシャーがかかってもおかしくない学生だったと思う。
小学生の頃から、そこそこ優等生なポジションにいることが多かった。
テストは大抵上位、運動も得意、学級委員や生徒会長もよく務めた。
結構やんちゃもして先生に怒られることも多かったが、なんだかんだいい関係を築けてきたように思う。
実際に聞かれることもあった。
「プレッシャーを感じないか?」
「王道以外を選択することが怖くないか?」
高校生の頃から、なんとなく不思議だった
どうしてみんなあんなにプレッシャーを感じやすいんだろう?
どうして誰かからの期待にそんな忠実であろうとするんだろう?
自分は鈍感なのか?
嫌味でも傲りでもなく、冒頭の通り「感じたことがない」私にとっては純粋な疑問だった。
そして最近、この疑問になんとなく答えを見つけた。
ふたつある。
一つはとても単純で、私がほぼ学生という身分しか経験したことないから。
社会に出るということは、社会人になるということは、
聞くところによるととてもとても大変なんでしょう
生活費の根源であるアルバイトは無論おざなりにはできないが、
世の大人たちが仕事や社会生活で感じているほどの圧を、多分私は感じたことない。
つまり、自分が鈍感なだけで、もっと強いプレッシャーをかけられれば人並みに疲弊してしまう。かもしれない。というのが一つ目の理由というか仮説
まあこの一つ目の理由はあまり的を得た回答でもないけれど
大事なのはふたつめで、親に恵まれたから。
「さすがだね」「できるよね」「〇〇はどうせできるもんね」「〇〇はすごいから」「どうして分からないの」「何故できないの」
私の両親は、こういう言葉を激励の意味で使わない。
友人、先生、部活の顧問、色々な人に言われてきたが、両親の口からは一度も聞いたことがない。
思い返してみれば、両親は私たち兄弟に対して、
何かをやらせたり結果を求めたりしたことがないのだ。
100点や1位のような目に見える結果を出した時は、もちろん褒めてくれた。
でも、結果を出しても出さなくても、頑張った過程があったならそこに注力して褒めてくれた。
「1番になれたことが偉い」より、
「1番になれるように/なれるくらい頑張ったことが偉い」。
加えて、両親は私たちに必ず失望したりがっかりしたりした様子を見せない。
友人のおもちゃを盗んだ時、校則を破って居残りさせられた時、驚くほど悪い成績をとった時
もちろん叱られたことは幾度もあるし、締め出されたことやご飯を抜かれたこともあるが、
親に失望された/諦められた、と感じたことがない。
今思い出すと、これはこうと決めつけずに、一緒に悩んで一緒に成長しようとしてくれていた印象が強い。
私は長女、両親にとって初めての子供ということで特に、
こういう風になってほしい、あれをさせたい、という気持ちもたくさんたくさんあったでしょう。
それに背いたり、思わぬことをし始めて、苦労したりがっかりしたこともたくさんたくさんあったでしょう。
けれども自分たちの希望や気持ちを押し付けず、失望や苦労を見せることなく、
ずっと信じ続けて見守り続けてくれている。
良い子の自分も悪い子の自分も、同様に受け止めてくれる人たち。
良い子の自分も悪い子の自分も、同様に帰る場所があること。
これが、私を強くしていい意味で怖いもの無しにしてくれているのだと思う。
信頼し尊敬する人たちが、どんな自分も受け止めてくれるのであれば、
他人の期待やプレッシャーにちょっとやそっとじゃ押しつぶされるわけないですよね
むしろ、勝手に期待して買いかぶっておいてくれるならラッキーです
その人の中では、私の価値が実際よりも高く見積もられているんだから。
特に、私は初対面では「いい子」という印象を与えがちらしい。
おかげで、就活での面接という新しい特技を先日会得した。
それから、他人からの期待は程よくモチベーションに変換することもできる。
例えば、
長身+ショートヘア+生徒会長により、新入生にかっこいい先輩だと思われる
→かっこいい先輩であり続けるために、成績の維持とバレー部の自主練をこそこそする
遠目で気になっていた男子に「にきびないし肌綺麗だよな」と言われる
→意地でも肌を綺麗に保とうと意識する、夜のチョコやポテチをやめる
など。どちらも経験談、、
ポイントは、自分にとって大きな存在(私の場合は両親)が「かっこいい先輩であること」や「綺麗な肌」に微塵も執着していなかったから、
「みんなが私にこうあることを望んでいる」「こういう自分でなければならない」という思考を持たずに済んだことだ。
だから自分を縛りつけることなく、程よいモチベーションとして利用することができた。
私のことを知っていくにつれて勝手にがっかりされることもあるでしょうけれども、
「優等生」「優秀」の像を派手に崩すことは結構楽しい。
「〇〇は王道いくと思ったよ〜」って期待を裏切ることも楽しい。
「え?私ってこんなだよ」ってへらへらしている時って、なんとなく胸がスッとする
来年からは、学生ではなく社会人になる
プレッシャーや期待を圧として感じないこの性格はもう変わらないでしょう、
首を切られない程度に、面接で撒いた「優等生」のステレオタイプも周囲の期待も、破り裏切り続けていく所存です
ゼロ秒思考を1週間続けてみた
どういう経緯かは忘れてしまったが、ゼロ秒思考というものを1週間前から毎日続けている。
ゼロ秒思考とは
ゼロ秒思考とは
赤羽雄二さんが始められた
であり、
具体的なやり方は
だそうで、
お手本としては
こんな感じだそうだ。
全て以下の記事から引用したので参照願いたい。
https://logmi.jp/business/articles/260889
ゼロ秒思考をやってみた感想
ゼロ秒思考の存在を知ってから初めてやるまでに、1週間ほどかかった。
理由は単純で、10ページも書くのか、、10個も毎日テーマ思いつかないぞ、、と気が引けてしまっていたのだ。
しかし実際に始めてみると、思っていたよりも全然手軽だった。
ちなみに私は、
10個のテーマを先に決めて紙に書いてしまい、そこから1分×10セット行っている。
ペンは、冒頭に貼り付けたuniball signo 0.38mmのブルーブラックを使っている。このペンは長らく愛用しており、日記も手紙も手書きの書類は全てこのペン。帰国したら4本くらいストックを買うし、日本から友人が来る際も5本お願いして引かれた。最近は替え芯も出ているらしいので、次回の帰国が楽しみである。
1日目振り返り
初めてやった感想は、
- 1分は早い
- 1分なら最後まで集中して書き切れる
- 手がたまに止まってしまう
- 単語だけ書いてしまったり一文が短かったりする
- まだスピードが重視されておらず比較的丁寧に書いている
- テーマが10個すぐに出てこなかった
- 自分が考えていることって意外と把握しきれていないなあ
といった感じ。
7日目振り返り
1日目と比較してみて
- 1分はやはり早い
- 10分も早い
- 楽しくなってきた
- 書いているうちに次のアイデアや書くことが出てきて手が止まらなくなった
- テーマがどんどん出てくるようになった
- 少しだけ長く具体的に書けるようになってきた
- 終わった後に頭がすっきりする
という変化が現れている。
ゼロ秒思考を1週間続けた感想
赤羽さんが推奨されているように、20〜30字で具体的に書くことはまだできない。また、月単位で長期的に取り組むものなので、頭が良くなっただとか思考の瞬発力が上がっただとか、そういった結果は勿論まだ出ていない。
ただ、テーマを考える際、自動的に最近の自身や周囲を振り返ることに繋がる。何かが起こって感情的になりかけても、明日これをテーマにしようと考える自分がいることで、少し冷静になれることもある。思いついたことを、吟味や加味することなく集中して書くので、自分がこういうことを考えていたのか、と後から意外に思うこともある。
始めはテーマが思いつかず、「ゼロ秒思考 テーマ」とググったこともあるが、今ではどんどん出てくる。バイト先でより貢献する方法、脱ネットする方法、過食を防ぐ方法、明日の休みに片付けること、今日のあのタイミングでどうすべきだったか、何故コーヒーが好きなのか、ポジティブに1日を過ごす方法、何故家でなくカフェで勉強したがるのか、いい女とは、など。
自分が取り上げたテーマを見て、自分はこういうことに気を取られているのか、これに悩んでいるのか、とメタ分析的なことができるのも面白い。
今後は、テーマ自体をもっと具体的にすること、書くことももっと長文で具体的にすること、をゆるい目標に、朝の習慣として続けていくつもりだ。
まとめ
ゼロ秒思考は面白い、具体性が大切、頭がすっきりする、長く続けていきたい、uniball signo 38mm ブルーブラックは最高のペン、
現場からは以上です!
今後続けるうちにゼロ秒思考の恩恵をより実感したらまた記事にします。
女子大生がスマホなし生活を始めて1ヶ月経った
スマホなし生活経過まとめ
きっかけ
ある日起床してスマホの画面を開くと、何故かロックがかかっていた。
偉そうにスマホなし生活について語っているけれど、別に意図的に始めたわけではない。
自分のApple IDを調べたりパスワードをリセットしたりしてみたけれど、どうにもならず、アップルストアに行っても購入した際のレシートと私のIDがないと解除はできないと言われた。
レシートなんて無論持っていないし、なんなら日本で3年前に買ったものなので、私がこのスマホを購入したという証明は簡単にはできなさそう。
なんせ無精なので、あれこれスマホのために手を尽くす面倒よりもスマホを持たない不便さが勝ってしまった。
そんな訳で1ヶ月前にスマホなし生活が始まった。
とりあえず感想、
余裕。
運が良かったこと
- 夏休み中であること
- パソコンを持っていること
- 仕事でスマホを使わないこと
困ったこと/よく訊かれること
- アラームがない
→朝方なので、夜更かししても7時台には目が覚める。今のところ早起きの用事はないが、新学期に向けてアラーム付きの時計の購入を検討中
- バイトの業務連絡
→ほぼ毎日出勤するし急な連絡がほぼないのでどうにかなっている、スマホが使えない旨をマネージャーに話したら了解してくれた
- グーグルマップ
→これは旅行の際にめちゃくちゃ使うので不便かと持ったけれど、ひとり旅出ない限りは大丈夫だと思う。実際数週間前にシカゴに行ったけれど、同伴者は無論スマホを持っていたし、アナログな地図を広げたり人に道を尋ねたりするのも、旅行だぞって感じで楽しかった。
- よく使っていたアプリ
→幸いパソコンでも使えるアプリばかりだった
- 友達との連絡?
→パソコンがあるのでフェイスブックのメッセンジャー等が使える。待ち合わせは、私スマホがないから場所と時間変更なしでよろしく!って言っておくと、勝手に見つけてくれる。
- 携帯の契約?
→していない。カナダに来たばかりの頃に契約したが、数ヶ月で解約した。
- インスタ?
→やっていない。
- 写真?
→もともとそんなに撮らない。
気付いたこと
- 意外とスマホはいらないこと
ロック解除を諦めてスマホなしの生活を送ろう、と決めた際に、何が困る?と考えた。けれども上記の通り困ることは意外と少なくて、ああこの箱から得ていた恩恵は意外と少なかったのかなと思った。
仕事等なくては困る人もいるでしょう、でもスマホが搭載する様々な機能のうち必要なものって本当に少ないと思う。
どこへ行くにも、財布と鍵とスマホ!と3種の神器扱いをして謎の安心感を覚えていた自分がちょっと馬鹿馬鹿しくなった
- スマホ以外にも娯楽がたくさんあること
趣味や娯楽に分類される物事は、生命活動に直接必要ではないが、生活を豊かにしてくれたり精神を健康に保ってくれたりする。けれども、スマホがその全ての役割を担わなくてもいい、という当然の真理にやっと気付いた。
スマホゲームやインスタだけが全てじゃない、釣りでもいい読書でもいい、散歩でもいいしボードゲームでもいい、面白いことってたくさんある
- 中毒の人が多いこと
忙しない毎日の隙間時間にスマホを開く習慣は多くの人に染み付いている。バイトの休憩中、バスの中、歯医者の待ち時間、果ては授業中も。見たいものだけを見る、自分が好きな狭い世界だけを見る、空き時間も寝る前もそうして箱を覗き続けたら、ヒトとしての五感が鈍っていくのも頷ける。これが中毒でなくて何が中毒なのだろう
- 全く同じ日はないこと
私はスマホを持たなくなったことで、無意識に見たり聞いたりする対象が、スマホの画面から自分の周りの世界に移った。外で友達を待つ間、好きな音楽を聴きながらまとめサイトを読む代わりに、ホームレスの人を見て鳥の声を聞いてトラックの排気ガスに顔をしかめるようになった。確かにこの情報社会、ニュースのひとつでも読んだり新しい知識を詰め込んだ方が余程有益かもしれない。けれども、毎日変わらないようで絶対に同じではない自分の周りをちょっと眺めてみるのも面白いと思う
まとめ
スマホはそんなに必要ではない、周りを見渡すと結構おもろい
とりあえずいけるところまでこのまま生活してみる
ここ3年の読書遍歴
私は小説ばかり読む。
ひとついい作品に出会うと、図書館でも本屋でも同じ作家の本を漁りがちだ。
現在好きな作家を挙げると、大学生になってから出会ってきた作家ばかり。
それから、紙の本が好き。
日本にいないが1000冊はくだらない日本語の本を借りれる環境にある。手に取れるジャンルは傾倒しているが、そのおかげで出会えた本が多い。
ここ3年で読んできた中で、ハマった作家を時系列順に並べてみた。
2016年夏 村上春樹を読破
初めて読んだのは「海辺のカフカ」、父の本棚からたまたま見つけた。作家は全く意識せず、海と付いているから何となく手に取った。ハマって、長編短編とりあえず図書館で手につくものは読んだ。村上春樹の書く文章は不思議だ。大きい事件は起こらないが、主人公と周りの少ない登場人物の世界は大きく揺さぶられて、でも結局何も変えなかったり変わらなかったり。どうでもよさそうなことが丁寧に書かれているが、文体は無駄がなく無機質だったり。SFにもなりうるような一見突拍子もないことが静かにしずかに起こるけれど、こういう小さい不思議な出来事は、誰も気付かない世界の隅っこで誰しもが経験しているんだろうな。最近読んでない
2016年冬 吉村昭にハマる
初めて読んだのは「破獄」。びっくりしてしまった。吉村昭は、現実にあった事件や出来事を綿密に取材した上で、史実になぞらえた物語を書くことが多いようだ。例えば、先述の「破獄」は昭和初期に四度脱獄を繰り返した男の話。戦中戦後の刑務所の様子はまるで見てきたかのように細かく描写されておりノンフィクションのようだが、登場人物たちはフィクションだ(主人公はモデルがいるが)。吉村昭の文章は、徹底した第三者視点と詳細な描写で、本当に映像を見ている気分にさせられて一気読みしてしまう
2017年春 吉本ばなな大好き
これ以前にもいくつか読んだことはあったのだが、「王国」シリーズが圧倒的すぎた。不器用で、お互いが大切すぎるせいで、大事なものの数は少ないのに抱えたらすぐ両手がいっぱいになってしまう登場人物たち。満たされることや優しくすることをきちんと知っていて憧れてしまう。現実逃避やじんわり元気をもらいたい時には吉本ばなな
2017年夏 ディストピアブーム開幕
図書館で何となく見つけた「虐殺器官」。何となく厨二くさいタイトルに惹かれて読んだらもう沼でした。伊藤計劃の思弁が圧倒的すぎる。そこから、既読のジョージ・オーウェル「動物農場」「1984年」も同じディストピアに分類されると知り、フィリップ・K・ディック、レイ・ブラッドベリを漁った。起こり得た現在、起こりうる未来。私たちの描くユートピアとディストピアにそこまで明確な違いはないと思う。愛と憎みたいな。昨日の敵は今日の友みたいな。私たちの視点が少しズラされれば、いつひっくり返ってもおかしくない。Blade RunnerもPSY-CHOPASSも大好き
2018年夏 浅田次郎にオチる
この時期手に取った「天切り松 闇がたり」シリーズが多分初めまして。人間らしく生きる上で何が大事なのか、何を優先すべきなのか、お金や損得勘定や数字では絶対に表せないものが、力強く堂々と描かれている。他のシリーズでもそうだった。 聖人君子なんかじゃなく、泥臭くて人間らしい、そして自分の正義を貫く人たちが出てくる。こういう人たちこそ鯔背って形容されるんじゃないかなって思う
2019年夏
最近はあまり新しい作家との出会いがなく、ざっくばらんに読んでいる、それから先述の作家をぐるぐるしたり。ディストピアブームはまだ続いている。他にもヘミングウェイとか山本周五郎とか沢木耕太郎も好き。national geographicは楽しい。ビジネス書や自己啓発系は、結構なお金を使わないと入手できないのでほぼ読めていない。そろそろ手を出したいので次の帰国はよ
第1回手作りグラノーラ コツと反省点
先日お店で食べた自家製グラノーラが、2週間経った今でも忘れられないくらい美味しかったので、自分でも作ってみた。
とっても簡単ヘルシーと謳われているし、実際にとても簡単かつ単純な作業行程だったのだが、それでも反省点がたくさん出てきたので覚書を。
もしグラノーラを作ろうとしている人が読んでくださっていたら、まとめだけでも読んで、私のような凡ミスで具材を泣かせないでください
材料
レシピによって材料や焼き時間が随分違ったので、結構適当でもできるのかと思い適当に作った。
今回使った材料の目算はこちら
- クイックオーツ 500ml
- チアシード 大さじ2
- ミックスナッツベリー 大さじ2
- はちみつ 大さじ1
- ココナッツオイル 大さじ3
- ドライココナッツ 大さじ1
手順
今回踏んだ手順はこちら。
この通りに作ったら残念な結果になりますので良い子は真似しませんよう
- ドライココナッツ以外すべて混ぜる
- 350°Fで20分焼く
- ドライココナッツを加えて混ぜ、さらに20分焼く
反省点
- 焼きすぎた、温度が高すぎた
全体的に焦がした、牛乳を注いだ途端にコーヒー牛乳みたいな色になった、苦い。
- ドライフルーツも焼いてしまった
ここまで完全な炭と化すだなんて、、ナッツと混ざっているものを買ったので面倒がってフルーツもオーブンに入れてしまった。ドライフルーツは絶対に絶対に焼いてはいけない、焼きあがってから混ぜること。
- 甘味が少なすぎた
はちみつをもう少し入れたりブラウンシュガーやメープルシロップを入れたりしたらもっと美味しそう。
- オイルが少なすぎた
これはこれでいいけれど、ごろっとしたかたまりは全く出来ずさらさらになった。焼く前のオーツがざっくりまとまるくらいまで、次回はオイルを加えてみようと思う。
まとめ
ドライフルーツは絶対焼くな、オーブンはこまめに開けて様子を確認しろ
現場からは以上です、次回をお楽しみに〜
接客業が奥深くて楽しくて大好きだという話
カナダで学生を初めてから半年後、レストランで働き始めた。
それからかれこれ2年半以上
今も同じレストランで働いている。
私は知らない人と話すことがとても好きで、接客業もとても楽しいと思う。
日本にいた頃も接客業をしたことはあって当時から自分にあった職種だとは思っていたが、海外というかカナダというか、日本とはまた違う面白さを感じる。
私の感じる範囲でいくつか相違点を挙げてみる。
- お客さんとの距離が近い
会話を通じてお客さんを楽しませることも仕事のうちのイメージ。今日の調子から服の話からこの後の予定から仕事や学校など様々な話をする。メニューに関しての質問もいつでも受け付ける。友達と話すようなノリの言い回しもよく使われるので驚くがとても勉強になる。こうして常連さんが増えてゆく。疲れることがあっても、なんだかんだ元気をくれるのはお客さんだったりする
- テーブルで全て面倒を見る
テーブルに担当のサーバーがつくことがメジャー。席に着くとサーバーがメニューを持ってやってきて、名前だけの簡単な自己紹介をすることが多い。料理が出てきた後も、サーバーがやってきて様子を伺ってくれる。その際に追加注文をしたりフォークを変えてもらったり水を注いでもらったりお皿を下げてもらったりする。お会計もテーブルチェックが多く、来店から帰宅まで一度も席を立つ必要がない。
- チップがもらえる
以上のようなサービス精神旺盛な仕事なので、お会計時に料理の値段+税+チップを支払われる。決して強制ではないが、ファストフードやよほど気に入らなかった場合以外は支払うことがマナーのよう。うちのお店はサーバーが独り占めではなく、労働時間に応じて分配されます。税を引かれる固定給とは違って現金で支払われるので、お給料日の度にボーナスがもらえている気分で良い。とても良い
まだまだあるとは思うがざっとこんな感じ。
私は英語がネイティブのように流暢には話せないが、接客をする中で多少は上達したと思うし、何より仕事以外でも初対面の人と話すことが容易になった。気持ち的にも語彙力的にも。
他のお店に行っても、サーバーと呼ばれる人たちはとても誇らしげでフレンドリーでかっこよくて、言い回しから立ち振る舞いからとても勉強になるのが面白い。どうしたらお客様に気持ちよく過ごしてもらえるのか、レストランのクオリティにおいて料理の質も大事だけれども雰囲気づくりも同じくらい重視されている気がするのだ。
レストランで働く中で、サーバー以外のポジションも全て担当するようになったが、一番奥深いのはやはりサーバーだと感じる。2年半やっていてもまだまだ慣れきってしまうことはなくて、もっとこうしたいとかここは駄目だとかいくらでも出てくる。
直接お客さんと関わり客席を見れる分、気を回す範囲も質も上げていなくてはならない。キッチンや事務仕事よりも気疲れはするが、仕事を終えた後に一番元気なのもサーバーだ。
こうして好きだと堂々と言える仕事に出会えてよかった、優しい仲間とお客さんに囲まれてよかった、
今日も元気に出勤しよっと
どうしたら自分に優しくできるのか誰か教えてください、とよく思うけれど
自分に優しくするってすごく難しい
別にストイックな生活を送っているわけではない、自分は甘やかし放題だ。
ポテチは食べるし 毎日コーヒーを飲むし 考えることはすぐに放棄するし やらなきゃいけない事の優先順位はぐらぐらで 映画を観ていたら日が暮れることもある。
でも、自分を認めることや受け入れることが本当に難しい、と最近思う。
実は他人に優しくするよりも自分に優しくする方が難しいのかもしれない。
他人に対してだったら、それでいいじゃんって無責任に言える。もういいよって許せる。頑張ってるじゃんって偉そうに言える。
でも、自分の人生の責任は自分にしか負えない。
それに何より、自分は可愛い。だから自分のことに関してはもっともっとと上を目指したり求めたりする。認めたり受け入れたりする上で生ずる妥協が許せない。
多分、自分に満足ができたら優しくするのは簡単なんだろうな、だけど自身に満足できる人なんてむしろいるのだろうか
自分を取り巻く環境は日々変化するし、自分自身も日々変化していく、その良し悪しはさておき。
アップデートされてゆく自分に毎度きちんと満足することってできるのだろうか
アップデートする際にこれは変えないぞっていういわゆる価値観を、うまく取捨選択することってできるのだろうか
そもそも、自分に満足したり優しくしたりできたら、幸せなんだろうか
どうして私は自分に優しくなりたいんだろうか
もうここ1年くらい、ずっと似たようなことをぐるぐるぐるぐる考えている。
分かったのは、
自分なりの答えを持っている人もいるしそうじゃない人もいるということ、
誰かが私に答えをくれる問いではないということ、
答えはないかもしれないし無数かもしれないということ、
自分はもうしばらく答えを見つけられなさそうだということ、
別に問いが問いのままでも楽しく生きていけるということ
もうちょっとこのまま