夜の日記
人は自らの意志により行動した時のみ価値を持つ
だなんて言われてしまうと耳が痛いけれど、そうだよなあって納得できる上にあまりそうできていない自覚があるからこそ耳が痛いのでしょうね。
毎日、
地に足がついていないというか目的もなくこなすというか。
数年前から自分がそうやってぼんやり生きていることには多分自覚があって、それを変えなきゃ2割まあ未来の自分が頑張ってくれる8割。
未来の自分に期待しすぎる癖はもう中学生くらいからあったなあ、
高校生になったら彼氏ができる、
大学生になったら上手く将来やりたいことが見つかる、
来年になったら英語がだいぶん上達して、
今年中にはまあそこそこ周りに評価されるような卒業後のプランが立つ。
4ヶ月もある夏休みは気付いたら折り返している。夏休み中の自分に期待していたことはほとんど何も手もつけていない。
ぼんやり漂っていることは別に悪いことではないけれど、そこに自分の意思が介在するのか、選んでそうしているのか、を大事にしたいなと思う。
けれども一方で、人生って案外成り行きとかふらっとしていたら過ぎてゆくもので、世界は勝手に回っていくんだよなあって気付いている。
人生は死ぬまでの暇つぶし
初めて聞いたのは高校生の頃だったろうか、そんなの寂しいし私はきちんと何かを成し遂げながら認められながら評価されながら生きていたいと思った。
今は、存外間違いでもないなと思うし、暇つぶしはそんなに悪いことではないよなと思う。
生を全うする時間が伸びるほどに、自分の世界は広がり自由になっていくものかと思っていたけれど、存外逆の傾向があることが分かってきた。それには争っていたい。もっと外に行きたい、留まっていたくない、と常に感じるのは、意識していないと狭まってゆく自分の世界に無意識に気付いていて、それに怯えてしまっているからかもな。
とまあ自分のあり方について色々思うことはあるが、自分の意思と現実に起こす行動は切り離してしまえば、または生きるためという目的に帰着させてしまえば、とてもシンプルだ。
数ヶ月前に沢木耕太郎の深夜特急を読んでから、座右の銘を酔狂にした。
何を持って酔狂とするのか、私が酔狂と思えばそうなので紛いも無い自己満足。
逆に酔狂であろうと自分を縛り足元がぐらつくことはやめような。座右の銘なんておまけオブおまけ、後から振り返って考えてカッコつけちゃうくらいちょうどいいんだ。
何かをやってから動機を後付けさせたっていいと思う、というか行動が動機を先行することは案外多いかもしれない。動機を先行させようと高尚な目的を探すうちに、行動を起こすまでに時間がかかったり感覚が鈍ったり熱意が失われてゆくかもしれない。それに、全部にきちんと言い訳がつく人生はきっと疲れてしまうしつまらない。必要最低限のことをこなせばまあ生きていけるし世界は勝手に回る。
けれども、主観でしか世界を捉えられない以上、勝手に回るこの世界も私が知覚すれば私の世界なのだ。
明日の事なんてわからないけれど
人生は止まらないし
大人になんてなりそびれたままでいいの
勝手に世界が回っても
King Gnu 'It's a small world'
ほんとそれな、というか勝手に世界が回るという言い回しはここから拝借したのでした。
寝よ